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涼波(すずなみ)は、日本海軍の駆逐艦。夕雲型の10番艦である。 == 艦歴 == 1939年度(マル4計画)仮称第126号艦として浦賀船渠で建造。1943年(昭和18年)7月27日に竣工して一等駆逐艦に類別され、舞鶴鎮守府籍となる。 竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(木村進少将(海軍兵学校40期))に編入〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030126100, pp.39〕。瀬戸内海に回航され訓練を受けた後、8月20日付で早波、藤波を加えて第三十二駆逐隊が編成される〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030126200, pp.23〕。翌8月21日、駆逐艦響、藤波、早波とともに横須賀に回航され、戦艦山城を護衛して8月27日に瀬戸内海に帰投した〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030126200, pp.27〕。9月30日付で第三十二駆逐隊は第二水雷戦隊(高間完少将(海軍兵学校41期))に編入されるが〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030126300, pp.23〕、引き続き第十一水雷戦隊の指揮を受けた〔『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101200, pp.10〕。 10月15日、涼波以下第三十二駆逐隊は軽巡洋艦龍田、戦艦山城、伊勢とともに丁三号輸送部隊を構成して佐伯を出撃。トラック諸島に到着後、10月23日と27日にはポンペイ島への陸軍部隊輸送に2回従事した〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030126400, pp.6〕。11月3日にトラックに帰投後、直ちにラバウルに進出するが、途中で重巡洋艦鳥海とともにタンカー日章丸(昭和タンカー、10,526トン)の救援を行った〔『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.11,28〕。11月5日、ラバウルは第38任務部隊(フレデリック・シャーマン少将)の空襲を受ける(ラバウル空襲)。涼波と鳥海は日章丸救援作業を終えてラバウルに向かう途中であったが、空襲を避けるためトラックに引き返すよう命じられた〔『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.30〕。11月7日にトラックに帰投するが、間もなくラバウルへ再進出し、11月9日に到着した〔『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.11〕。この頃、11月5日の空襲に満足した南太平洋軍司令官ウィリアム・ハルゼー大将は、更なる戦果拡大を狙って太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将に新手の空母任務部隊の派遣を要請〔『戦史叢書96』413ページ〕。ニミッツ大将はギルバート諸島方面の戦況をにらみつつ、第50.3任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)を派遣することに決した。 11月11日早朝、第2回のラバウル空襲が行われた。第38任務部隊はブーゲンビル島北方から、第50.3任務部隊は同島南方から挟み撃ちの格好で艦載機を発進させた。これに対し、ラバウルから発進した偵察機は第50.3任務部隊を発見〔『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101500, pp.1〕。これに伴い、ラバウル在泊の駆逐艦は折からのスコールにまぎれて港外に脱出しつつあった。涼波は北方に向けて脱出していたが、7時5分、タブルブル山(花吹山)方面から来襲した雷撃機を撃墜した〔『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.49〕。間もなく右方向からも雷撃機の一隊が来襲し、発射された魚雷のうち3本を回避したが、残る1本が一番発射管付近に命中。爆発により左に傾き、また予備魚雷格納所から火災が発生した。さらに急降下爆撃と機銃掃射を受け、爆弾一発が後部電信室付近に命中した〔『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.50〕。7時21分、予備魚雷格納所からの火災が一番発射管に引火して搭載の魚雷が爆発し、沈没した。駆逐艦長神山昌雄中佐以下209名が戦死し、43名が大波に救助された〔『第二水雷戦隊戦時日誌』C0803010140, pp.47 、木俣, 393ページ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「涼波 (駆逐艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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